iwayan’s diary

ギリギリを生きるすべての人へ。

進路ギリギリストーリー

この度、3月に実施される奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)の3回目募集になんとか合格し、ギリギリ進路を決めたいわやんです。私のギリギリストーリーを綴ります。

私は、色々あり9月から研究室を移った。この一件で、これまで楽しかった大学生活の思い出が全て消えて嫌な思い出しか残っていない。
私の他大の友達でも変わった教授から壮絶なパワハラを受けて心身症になってしまった友人がいるが、彼女も同じように感じている。その教授は彼女と接触禁止にまでなったそうだ。アカデミックな世界では変わった人間もおり、珍しいことではないらしい。これから社会に出てそういうヤバい人間に遭遇した時のいい訓練になったと今では思っている。私が去った後でも、あのパワハラ講師は新たなターゲットを見つけていびり続けるんだろうと思う。(実際に誰も幸せになれない歴史がその研究室で繰り返されている)

そうして研究室を去ることになった私を受け入れて下さった教授にはとても良くしていただいていたので院進してそのままセラミックスの研究を3年間研究するつもりだった。

しかし。
大学院の入学金を払わなければならない11月。

再三再四、入学金の支払いについて父親にLINEするも既読無視されており、しびれを切らして直接父親のもとに乗り込むも、
「お前を大学院に行かせるつもりはないからその入学金も無駄金になるから払わない。これは親戚の総意だ。」と父親に追い返されるという事件が発生。

「もうこんな時期だと就活は絶望的。来年既卒で就活しなければならない」と泣きついても、
「なら家の手伝いでもしろ」と取り合えってもらえなかった。

追い返されたその日の晩、茫然自失として難波を放浪していたら、取り乱した母親からお願いだから帰ってきてほしいと電話があり、帰って母親と話し合った結果、こんな思いをしてまで自大学院にいくことはないという結論になった。

私は研究がしたかった。
研究に夢中になる余りオール実験をしてしまう日もあった。それでもデータが出た時は嬉しかった。
私は直上が英語しか話せないドクターで、LINEも含め日常のコミュニケーション全てを英語でする必要があった。それをバネにして国際学会にも挑戦したかった。
まだ使い方を教わっただけで全然触ってない装置もあった。
教授が出した特許・論文の数は同志社でもトップクラスで、今の研究室は常識的な範囲内での忙しさでやりがいの感じられる環境だった。
ここで終わりたくない。
私はただでさえ途中から研究室を変わったことで他の人よりも圧倒的に経験が足りない。それを跳ね返すには何もかも足りない。

すぐさま教授に相談した。
すると、来年研究生(※正式な学生ではない浪人のようなもの。学費はかからない)として既卒就活をするのが一番現実的だと言われた。

しかし、数日後、教授がなんと企業を紹介してくださったのだ。さすが普段から常に数々の企業と共同研究をされている教授なので、有難いことに企業とのコネも強かった。その企業はうちの研究室でもインターンにいっていた同期がいたほど老舗優良企業だった。私が本当に覚悟を決めるまではその企業の人事に話を通さないから、1週間で返事が欲しいと言われた。もうその時既に11月中旬で、本当にラストチャンスだったのだろう。むしろそんな有難い話は奇跡だったと言ってもいい。

その1週間の間、とにかく他研の教授や実験講師達に相談したが、みな口を揃えてその企業に就職した方がいいと言った。”院卒にそこまでの価値はない。社会に出てから必要な知識や力をつければいい”と。

そして私なりに、たとえ就活したいと思えなくても、仮にこの時期からでも納得のいく企業に就職することは可能かどうか調べてみた。当たり前だがどの企業のHPを見ても、手当たり次第に電話してみても、中途採用しかやっていなかった。学生募集条件も2020年度卒ばかり。しかも登録に大学のメアドが必要だということを知った。つまり、来年になると私はその登録する権利すら失うわけだ。この事実を知った時、私は吐いた。おまけにストレスで突発性難聴を発症した。イヤホンを最大音量にしても片方の耳がほとんど聞こえなくなった。(数日で治った)

こんな絶望的な状況なのに、私はどうしてもその企業にいく気持ちにはなれなかった。みんなはESを何枚も提出し、何回も落ち、それでももがいて苦労して自分の一生勤める会社を納得して決めていく。だからこそ、辛いことがあっても自分が苦労して入った会社だからこそ、踏ん張る気持ちもわくのだろう。私はここで仮にその会社に入ったとしても、これから辛いことがあってもその会社に忠誠を尽くせるか、嫌にならないか、と自問自答してもイエスと言える勇気がなかった。

…まだ大学院にいく道は残されてないか。

一応、父親がこうする可能性も見込んでいた母方の祖父が入学金を代わりに振り込んでくれていた。首の皮は繋がっていた。しかし、自大学院にいくなら3月までに次学期分の学費を支払わなければいけない。今度は大金だ。とても助けてくれなんて言えない。その学費を奨学金で賄えないか、大学の支援課に確認した。しかし、学部の間は親の年収制限があり父親が医者の私にはそんな権利はなかった。大学院になれば親の年収は関係無くなるので、私にも権利は貰えるのだが、私は私立中高一貫校出身で、大学も私立なので、奨学金審査の際に、私立出身の人間は落とされる可能性があるとのことだった。おまけに仮に自大学院に進んだとして、私の親戚はみな国公立医学部出身なのに、私は父親の反対を押しきっても金のかかる私立大学院にいった親不孝者としての烙印が押され、今後の私のライフイベントの度に嫌味を言われるかもしれない。それだけは避けたい。

ならば国公立の大学院の二次募集を受けるしかない。国公立ならば、入学金も学費の支払いも7月まで延長できる。奨学金の申請をして実際に支給されるのが7月からなので、僅かな学資保険と合わせれば自分で払える。

結論がでたので、教授に断りの返事をした。国公立の大学院の二次募集を受ける意志を伝えた。前の研究室で絶望していた私を受け入れてくださりこんなにお世話になっているのに、最後まで教授の研究の夢にお付き合いすることができず申し訳ありません、と深々と頭を下げた。すると教授は「求めれば与えられん。その道を望めば自然とその道は開かれる」と、教授のご厚意に砂をかけるような選択肢をとった私をなんと応援してくださったのだ。(「ただし倒れるなよ」と忠告はされたが。。)

周りから
「年収700万もある会社なんやぞ!ちゃんと調べてへんやろ!俺ならそこにいく」
「その企業だと不満なんでしょ」
「なんでそんなに色々なものを抱え込む方向にあえていくの?」
と批判を受けた。

思えば、これが地獄の始まりだった。

早速、受けられる大学院を探した。京大は数日前に締め切られていた。阪大は理学部しか募集がなかった。神大、市大はそもそも二次募集がない。府大にメールしてみても、化学科は今年度は募集してないと断られた。電気情報は募集していたのに。どうやら、二次募集というものは、研究室に空きがあれば実施するというもので、運も必要だった。

藁にもすがる思いで、九大にメールを送った。するとすぐさま研究室訪問に来て下さいと返信がきた。11月末に九大まで夜行バスで直行した。そこで目にしたのは素晴らしい研究設備だった。たった一研究室のもつ実験室であっても、部屋が多過ぎて全てを回りきることが出来なかった。世界でもそこしかしていないという、面白い電池の研究をしている研究室だった。規格外に巨大な装置が一部屋にすっぽり収まっている部屋が何部屋があったのだが、恐ろしいことにその全ての部屋がそのたった一つの研究室専用の装置だというのだ。まるで豪邸を訪れた時のような高揚感を感じた。うちの大学なら予約制で各研究室で共有して使っている装置(SEM,TEM,XRD…)も、他研にしか無く使用する機会も無かった装置(吸光分析、NMR等)も、その九大の研究室は全て自前で揃えており、好きな時に使えた。

その研究室の皆さんは私にとても親切にしてくださり、過去15年分の過去問をくださった。私はそれを持ち帰り、1月にある九大の大学院試験までにとにかく解く決意を固めた。

もうその時点で12月に突入しようとしていた。

実は、私は11月までにしていた共同研究で特許出願することになり企業秘密ということで卒論に使えるデータが無くなっていた。途中で高熱で3日間休んだのもあり、この騒ぎも相まって11月にできたのは新たに論文を数本読むことと、装置の組み立てぐらいだった。(論文探し、装置組立は教授が手伝ってくださった…)
しかも私は2秋に体調を崩し、今学期は基礎化学実験を再履修していて毎週木曜は実験で潰れ、10枚以上のレポートを毎週提出しなければならなかった。おまけに授業を4つも履修していて1つでも落とすと留年だった。余分に授業をとってしまうと1つぐらい落としてもいいやと気を抜いてしまう可能性があったのでギリギリで入れたのだ。

9月から研究室を変わり、ただでさえ他の人よりも遅れているのにさらに追い討ちをかけるようにマイナスの条件が重なっていた。

あと2週間少し後の12月20日に中間発表が差し迫っていた。もう12月に突入したのに、私はデータが全く無く絶体絶命だった。まず授業を切ることにした。それまでは授業に出ていたから出席点半分にはなるが期末で挽回してやる。大丈夫、私ならできる。

九大の試験は、二次募集だと物理化学と無機化学だけでよかった。最悪、本番わからなかったら数学の解析に逃げる算段を企てた。解析は一回生の時それなりに勉強して両方Aだったのでマセマという参考書で軽く復習するぐらいしかしていない。無機化学は一瞬で勉強が終わりそうだったので直前に詰め込むことにした。ただ物理化学が曲者で、熱力学の計算が難しかった。問題文がシンプルだが要求される計算レベルが高かった。式の変形が鬱陶しかった。ただ毎年必ずサービス問題で基本的な問題は出ているのでそこは死守できるようにした。いきなり過去問は解けなかったので、授業で履修した物理化学演習のプリントをまずは復習した。期末前に5回解き直して本番の期末では86点取っていたので、これをざっと軽く復習することで勘を取り戻すことができた。幸いにも九大も自大学もアトキンスという同じ教科書を使っていたのが救いだった。それから、マセマの熱力学の参考書を2巡した。これ以上に分かりやすい参考書はないと断言する。それから過去問に取り組んだ。

平日は2日に1日のペースで徹夜、土日は図書館で籠って取り組むことで鬼のペースで過去問を解いていた。

TOEFLを受験する必要があったのだが、1回と2回の頃にTOEFL対策講座を受講しており形式は知っていたので、勉強せず全勢力を筆記にかけることにした。筆記の方で勝負するつもりで過去問をH30からH17まで遡ってひたすら覚えるつもりで解いた。

パスポートを発行するために市役所にいったり、本籍地まで戸籍謄本を取りに行ったり、発行されたパスポートをまた取りに行ったりした日でも、研究室にいった。例え研究室につくのが夜10時だったとしても、誰もいない深夜の研究室で実験していた。深夜の研究室は人目を気にせず装置の待ち時間に勉強し放題だったので最高だった。

12月の生活リズムは死んでいた。2日に1日のペースで徹夜していたので、どれだけ早く起きようと思っても昼過ぎに研究室にいくので精一杯だった。夕方くらいにいくこともあった。なのでほぼ連日終電まで実験していた。その間は勉強できないのでさらに焦りまた夜遅くまで勉強してしまい、また起きるのが遅くなるの悪循環だった。あまりの疲れからやらかすことがあって研究室のメンバーに迷惑をかけてしまっていた。私があまりにも顔が死んでいるので、教授が気を遣ってくださりこっそり例の企業の人事に今からでも就職可能かどうか聞いてくださっていた。さすがにもう時期が時期なので、来年研究生として1年待ってもらってからの入社になるという返答だったそうだ。ますます後に引けなくなった。

そんな時、また事件が起こった。15日に広島で受けたTOEFLがエラーで中止になったのだ。広島の会場でエラーが起きたのは私とカメルーン人の2人だけだが、日本全国の会場で同じエラーが発生しており試験官も混乱していた。結局、当日中の再試験は叶わなかった。こうしてパスポート発行代や受験料、広島への遠征費など苦労して揃えた合計5万は無に帰した。次のTOEFLの試験日が1月中旬になってしまうので、1/10に試験がある九大へのスコア提出に間に合わない。

九大の入試課には英語のスコアが0点でもいいから筆記だけでも採点して欲しい、筆記で勝負をするから、と嘆願すると、検討してくれるとのだったので、連絡を待つことにした。

20日の中間発表が迫っているのに、発表5日前でまだ薄膜が出来ていないという状況だったので、3日前には研究室に泊まり込み突貫日程で2日連続徹夜実験してデータを揃えた。その間、私を心配した九大の助教授から励ましの電話があり元気がでたので2日間の徹夜などものともせずデータを出すことが出来たのだ。実は途中、発表2日前に他研がX線装置を故障させて使用出来なくなるトラブルがあったが、XGCとRCDのログをメーカーに送って原因を特定し、私の研究室の教授が治してくれたのでなんとかなった。(独断で勝手にログを送ったので他研の先生からお叱りをうけた)

しかし非情にも中間発表前の前日の夜8時に電子顕微鏡で観察している時に九大から、「残念ながら出願不可」という旨の電話がかかってきた。誰もいないSEM部屋で号泣したのを今でも克明に覚えている。

こうして九大は、挑戦することすら叶わず私から去っていった。

一気に2徹の疲れが押し寄せてきて激しい眠気に襲われながら終電で家に帰るも、翌日に発表なのにパワポが1枚も出来ていない。Excelにデータを入力して計算するところからしなければいけなかった。出願不可のショックが響いてしまい、パワポが出来たのがなんと発表当日の昼1時だった。教授から昼からきていいと前日に言われていたが、これだと発表すら間に合わない。私の順番を最後にまわしてもらったが、私が大学に到着したのが、私の前の人が終わる5分前だった。あと少しでも遅れたら発表できなかっただろう。だが、それまでに練習する気力ももはや私には残されておらず、いきなりぶっつけ本番で発表したため玉砕した。あんなに酷い発表もそうそうないと思う。

「あれを聞いて理解できる人なんて誰もいないと思うよ」と率直な感想を教授からいただいた。

酷い発表を終えて、本気で凹んだ。しかし教授から、過去にこの研究室で自大学の院試に落ちても3月の先端大の院試で合格した人がいると励ましを受けた。(私はその時それは奈良先端大だと勘違いしていたが、北陸先端大の方だった)

九大の先輩からも、他研の教授からも、奈良先の3月の3回目募集は京大阪大の院試に落ちた人が押し寄せてくる狭き門だと聞いていた。

倍率も調べてみた。昨年は16人中4人合格。倍率4倍。絶句した。

…まだ九大の方が良かったかもしれない。倍率も1.1倍だった。私なんか絶対無理。逆立ちしても無理。無理無理無理無理。

でもこのままだと来年研究生になってしまう。私は大学中退を経てこの大学にきたので3年既にロスしている。就活の世界では3年のロスを越えるとアウトという掟があるらしく、企業説明会で出会った人事に「あなたはあと一年でも留年するとアウトよ」と言われたことがあった。

もう私には後がない。どうせあと少しの間だけ、無理を続ければいい。ここで諦めて死んだような人生を送るくらいなら例え寿命が短くなってもいい。不安で眠れないのなら、いっそのこと開き直って眠くなるまで勉強すればいい。

私は中学高校では趣味(陸上、ゲーム)に没頭するあまり学校にもマトモに通わず、友達と学校をサボって梅田で遊ぶような不良だった。当然勉強なんか全くしておらず、常に退学の危機にあったようなぶっちぎりの落ちこぼれだった。しかし浪人してからは駅から予備校までの道も歩きながら単語帳を見て登下校し、寸暇を惜しんで猛勉強してなんとか持ち直した。だから次もきっと出来る。となんの根拠もない自信と共に、中間発表後すぐに奈良先の対策を始めた。

まぁ、、ここからが本当の地獄だった。(忍び寄る鬱の足跡)

まず、奈良先の受験にはTOEICが必要だった。次のTOEICの試験は1/12で、あと2週間強しか残されていなかった。最後にTOEICを受験したのが去年の3月だったが、受験中やる気がなく途中で疲れて早く終わらないかなと思っていたぐらいで、当然スコアは400点代だった。そこからあと2週間でスコアを200点以上あげなければいけない。しかも奈良先の願書提出に間に合わすにはその試験日しか受けられず、またもや一発勝負でやるしかなかった。

スタディサプリというプロの講師が授業するオンデマンドの神アプリで、家のPCからその授業を全て受講した。年末年始もその講座を観ていた。

講座の流れは、
①まずは問題をとく(リスニングなら音声が流れる)
②解説を読んで答え合わせ
③プロの講師による解説動画を視聴する
④流れてくる音声を聞きながらスクリプトを読んでもう一度本文と単語を確認。(親切にも単語一覧も本文横にまとめてくれている)
⑤ディクテーション(書き取り)。聞こえてくる音声を聞いてスクリプト無しでその文をタイピングする。
シャドーイング。音声に続いて、ボソボソと声にだして真似してみる。

このように、1つの題材をしゃぶり尽くすようなレッスン内容になっている。英語特有の音の繋がりに苦戦して初めはディクテーションがなかなか上手くいかなかったが1週間もすると慣れてきてリスニングの正答率が飛躍的に上昇した。

TOEICはPart1から7までで構成されている。この講座はそれぞれのPartで、問題タイプ別のレッスン(例えば申込み、予約、依頼のシチュエーション等)が複数用意されており、出題パターンの全てを網羅できるわけだ。

コツも教えてくれる。
・is being(今まさにされている)とhas being(もう既にされている)の聞き取りの違いの引っかけ問題はほぼでる。例えばもうすでに何かこぼれているのに、is beingの選択肢を入れて引っかけてくるなど。
・Part1の画像描写問題では一見目立つものではないものが答えになることがある。例えば写真を見た瞬間に一見目がいく大きな木や男女カップルが答えではなく、答えはその影(casting on the shadow)であったりする。
・似た音で答えている選択肢は引っかけであることが多い。例えば会社でのコピーについての会話なのに、coffeeとcopyで引っかけてくる。(東南アジアの人はpとfが同じ音で聞こえるらしい)
・会話を聞いて正しい返答を選ぶ問題では、either is fine(どっちでもいいよ)、地図を見てくれよ等、はぐらかしているものが答えになりやすい

これらを知っていれば、例え聞き取れなくても正しい答えを選ぶことができる可能性はあがる。

また講座の中で出てきた知らない表現・単語は単語帳に全て書き記して、隙間時間にパラパラめくって覚えた。初めの3回ぐらいはその単語帳をザーッとみて頭に叩き込む。3回見ても覚えきれなかったページには付箋をつけた。そして次はその付箋だけ確認してそれでも間違えたページはちぎって別にまとめた。

冬休みがあけて1/8から研究室が始まっていたのだが、本番試験の1/12までは教授に許可をとり研究室を休んでTOEICの勉強に備えた。

しかし本番前日は一発勝負というプレッシャーでほとんど眠れず、なんと試験本番、Part2で寝てしまうという事件が発生。目が覚めてから今どこの問題なのかわからなくなりパニックに陥りその後の数問も落とした。案の定、そのPart2と勉強時間が割けなかったPart5(文法問題)は5割しか取れなかったが、他の正答率は8割前後だったこともあり、なんとか700ぐらい取ることができた。

TOEICが終わった後の1週間は奈良先の研究室訪問に足しげく通った。奈良先のキャンパスは国立とは思えないほど垢抜けていた。
参考にするため、入試に提出した先輩方の小論文を4本ほど頂いた。また、奈良先の教授や先輩方から、奈良先の対策について入念に聞いた(後述)

しかし奈良先の研究室訪問を全て終えて帰って来た翌日、糸が切れたように鬱になった。次の週から期末期間に突入する上に、その期末期間の間に卒論要旨の提出と、奈良先の小論文提出が重なっていた。しかも12月から授業に出ていないので出席点が半分で期末に挑まなければいけないし、1つでも落とすと留年だ。これから抱え込むものの重圧に参ってしまったのか、全てを投げ捨てたくなった。活字を読んでも全く頭に入ってこない。とにかくダルくて布団から起き上がろうとも起き上がれず、そのまま1日が終わってしまっていた。なので食事もとれなくなった。典型的な鬱だった。やらなければいけないのは頭でわかっているのに、布団にくるまって留年や奈良先を落ちた先の未来にただ怯えていた。例えるならガソリンはあるのに脱輪して上手く走れないような感じだった。これ以上やると自殺してしまうと脳がアラームを出していたのかもしれない。

そんななか、後輩から私を授業で見かけなくなって心配しているとLINEがきた。私は大学院の二次募集に向けて勉強をしていたことは誰にも言っていなかったのでとにかく孤独だった。年も越しているのにまだ進路が決まっていない人は私以外にいようか。孤独な状況でずっと走ってきた。だからそのLINEだけで私は救われた気持ちになった。立ち直ってからは徹夜を重ねて勉強して、期末も卒論要旨も気合いで乗り切った。しかしその間、研究室には全くいっていない。もう期末勉強だけで精一杯だった。

奈良先の小論文は、自分の研究室の過去の論文や研究報告書を読んで3日間で急いで書き上げて締切ギリギリで提出した。

①自分の今取り組んでいる研究テーマ
②奈良先で取り組みたいこと

について、A4用紙2枚にまとめるのだが、私は大胆にも②については申し訳程度に数行しか書いていない。大まかに話すと、「これからの世の中はこういう流れになるだろうから、それについて解決するためにこの研究室にいってエネルギーバンドの解析に取り組んでみたい」みたいなことしか書いていない。

何故なら、奈良先の素晴らしい設備がどうこうとか、研究者になりたいなんていう決意表明は向こうからしたら耳タコな訳で、それなら①についてギッチリ書いて自分をアピールする方が大事だと思ったからだ。自分を採用すると奈良先にとってどういう利点があるのかを書きたかった。自分の研究室ではとにかく沢山の装置を使っていた。教授は必要ならば学科を問わずすぐ他研のそこの教授に連絡してその研究室の装置を私達に使わせてくれた。他大や企業にまで遠征して実験する人もいた。色んな研究室を往き来することにはなるが経験は積めると思う。教授はこれまで学科にとらわれず様々な教授と共同研究をされてきた。その上、引退間際で地位も高かったからこそ、なせる技なのだろう。実際、自分の研究室の就職先も良かった。

そうして、なんとか全てを乗り切りあとは卒論だけという状況になったのが2月も1週間過ぎた2/6だった。卒論諮問会(2/20)まであと2週間という絶体絶命の状況になってしまった。私は1月の丸々1ヶ月間、TOEIC、研究室訪問、期末期間で全く研究室に行っていなかった。つまり年を越してから一度も実験をしていない。もうその段階では自分の研究室の他のメンバーは全員とっくに実験は終えていて、諮問会のパワポを作りつつ卒論を書いていた。それなのに私はパワポどころか実験すら出来ていないのだ。大馬鹿者である。

恐る恐る研究室に足を運ぶと、当然のごとく教授から大目玉をくらった。当たり前である。1月に冬休みが明けてから丸々1ヶ月間研究室に来ていなかったのだから。ただでさえ9月から研究室をうつり、11月までのデータが卒論に使えなくて他の人よりも相当ヤバいのにも関わらず。

「実験データが少なすぎる。他研の教授らは絶対に認めない。このままだと良くて卒論保留」と発破をかけられた。

もし諮問会で卒論保留になれば、その後追加実験をして合格になり次第卒業証書が貰えるらしい。私はそれがベストだと思ったが、そうなると3月6日にある奈良先の本番の面接にむけて準備が出来なくなるので、あと2週間、研究室に泊まりこんで鬼のように実験するしかないと腹をくくった。落ち込んでる暇はない。やるしかない。

覚悟を決めて研究室に大量の着替えと入浴セット、冷凍食品を持ち込んだ。ラボメンバーからは合宿かとツッコまれた。

しかし。なんと実験中、深夜に装置が壊れてしまった。

万事休す。もう留年だ。絶望して私は直そうとしてくれたM2の先輩の前で泣き崩れてしまい、もうどうしようもないので家に帰った。

家に帰って暖かく迎え入れてくれたのは、インフルにかかった母親と弟だった。まさに地獄絵図。私が代わりに食事をつくった。

母親は私が卒業できるかどうかを心配し、奈良先も諦めたらどうかと提案した。母親がバイトをして、祖父が経営していた病院を潰して建てたマンションの収入と合わせて自大学院の学費を工面するというのだ。

私は当然反抗した。私がこれまでしてきた努力が全部水の泡になるからだ。私の両親は、私が物心ついた時から別居している。外科の医者は忙しいのかもしれないが、父親が家に帰ってくることなんてなかった。あの父親が考えを改めるなどあり得ない。しかも弟も理系で大学院に進学するつもりだったので、私がここで私立の大学院にいくことなど私には考えられなかった。

私も体調を崩してしんどかったが、お互いが肩で息をしながら母親と大喧嘩した。私はたまらず、数日間分の食事を買いこんで家の冷蔵庫に放り込んでおき、まるで家出のように研究室に逃げ込んだ。(まぁ母親も治りかけだったので…)

研究室に逃げ込んで研究を再開できたのはもう諮問会まであとわずか1週間という極限状態だった。装置が壊れてしまったので、急遽教授が別の方法を提案してくださった。なので別の粉末を使って1から実験をやり直した。あと1週間で、実験からパワポ作りまで全てを終えなければいけなかった。寝るのを諦めるしかないという非常に合理的な決断をした。夜通し複数の溶液調整、朝方まで66枚(観察用途別に作る必要があった)もの薄膜作製、それから夜中の7時まで発光測定、夜7時から深夜2時まで顕微鏡観察、深夜2時から朝9時までX線測定…とまさに突貫日程で3徹して一気に大量のデータをとった。研究室には5連泊した。発表3日前にデータを取り終えて、翌日はExcelでデータ解析、発表前日にパワポが完成した。発表前日にはまたまた徹夜で論文や教科書を読み耽って口頭試問に備えた。この1週間は徹夜続きで生きた心地がしなかったが、本番は落ち着いて卒論諮問会を乗り切った。発表から数日後、諮問会が教授陣から高評価だったと教授から告げられた。教授達は私の状況のヤバさを知っているので、「まさかあんなに答えられるとは」と驚いていたらしい。プレゼンは得意な方なので、実のところはただ虚勢をはっただけなのだが…。

卒論は3日間で一気に書いて提出した。当然のごとく書き直しになったが、奈良先の面接が終わるまで待ってくださった。卒論が一段落ついて、あと残すは約2週間後の奈良先の面接のみとなった。この残り2週間は多分私の人生で一番勉強した。

奈良先の教授や先輩方から教わった対策法は次のとおり。

①まずは小論文に書いたことには完璧に答えられるようにする。詳しくツッコまれて聞かれる。基本的に研究のことについて主に聞かれる。例えば錯体について研究していた先輩は、点群について詳しく聞かれたらしい。
②研究についての5分間のプレゼンはきっちり時間内に終わるようにすること。時間内に終わるかどうかも評価対象になる。
③奈良先の教授には同志社の院試もよく知っている方がいるので、学部成績表で履修している科目を見ながら、「この科目の単位を取ったのならこの程度のことは知っているよね?」と基本事項を問う。例えば主量子数の話(s軌道、p軌道…)や熱力学第三法則はパッと答えられるか?等
④研究で使っている分析機器の基本原理はよく聞かれる。(例えばX線なら、ブラグの式など)先輩でも聞かれた人が多かった。

まずは同志社の院試を軽く復習した。無機研なので無機と物理化学は重点的に復習した。有機は詳しく聞かれないだろうと思い、時間がなかったので有機は捨てた。有機演習のノートだけ復習した。本番でも一切聞かれなかった。

ただ面接で計算問題はまず出ないので、途中で院試の復習はやめた。そこで役に立ったのが公務員対策のテキスト。面接でも聞かれそうな基本事項をまとめてくれているので、全ての科目のテキストを一読するだけで効率よく学部時代に習った基本事項が復習できた。

他には卒論のために読んだ論文を5本ほどもう一度読み直した。特に直上のドクターの論文(英語)と研究報告書は熟読した。卒論を書くという作業のお陰でここは頭には入っていたので、サラッとですんだ。

あとは分析機器や研究に関する本を図書館から借りて読み耽った。
・粉末X線解析の実際
・熱量測定、示差熱分析のハンドブック
・ESRスペクトルの実際
・セラミックスの基礎
ゾルゲル法の科学
・よくわかる抗菌と殺菌の基本と仕組み
・微粒子について
・セラミックス研究者のための電子磁性入門

他にはArガスでスパッタリングして行う定量分析もやっていたのでその原理についてはネットで調べた。またSEM(電子顕微鏡)を使う際に発生することのあるチャージアップや導電性についても復習した。志望する研究室が半導体について研究していたので、バンドギャップや半導体(n型、p型)、ノンストイキオメトリ化合物、格子欠陥についてはよく勉強した。

そして迎えた当日本番。なんと当日の朝になってようやくプレゼンのストーリーが完成するというギリギリっぷりだった。5分以内に収まるかどうかも練習できないまま、とうとう家をでる時間になってしまった。手汗をかき、過呼吸に陥りパニックになっている私に、母親は何も動じず「自分が緊張していたら相手に伝わるものも伝わらないわよ」と私に言い放った。その一言で私は冷静になれた。

最寄り駅までは深呼吸しながら向かい、電車の中で時間を測って練習した。すると10分もかかってしまうことが判明した。省略したり、順番を変えてまとめたりと推敲を重ねた。その時、駅のホームにいた周りの人間からはペンと原稿をもった女が何やらブツブツ呟いている怪しい人間に見えたと思う。奈良先に着く頃にはなんとかストーリーは完成した。

しかし本番の面接には一切持ち込み不可なので、原稿は全て頭に叩きこまなければいけない。パワポは使えず、使用できるものはホワイトボードのみ。だからスラスラとホワイトボードに書けるようにしなければならない。幸いにも待合室で自分の番号が呼ばれるまで約一時間半あった。その間は必死に何度も何度も練習して原稿を頭に叩き込んだ。自分の時間が近づくにつれて心拍音が自分でも聞こえるぐらい緊張した。

そして自分の番号が呼ばれた。

研究のプレゼンは少し5分をオーバーしたが許容範囲だった。面接官からは「熱意あるプレゼンありがとうございます」と言われた。これまで大学時代プロジェクトやビジネスコンテストで入賞してきた経験が活かせたと思う。

質問された内容は、ほぼ全て研究に関することだった。詳しいことは研究内容に関わることなので言えないが面接のやり取りを一部だけ抜粋すると(私の返答が合っているかどうかは保証しない)
「ESRの原理は?」→磁場をかけるとゼーマン分裂が起こり、逆平行のαスピンと平行のβスピンとの差に値するマイクロ波をかけると…。またこの装置は測定物質が不対電子をもつかどうか判別するのに使われており例えばこの場合だと反磁性相互作用によりESRは不活性で…。
X線で、ピークの高さだけ変わって半値幅が変わらないというのは?」→両方粉末での測定なので定量的に判断していると仮定して、格子歪がこの方向にかかると、ピークが高角度側にうつり…
X線のピークは何で決まる?」→格子定数です。

うん。やっぱり分析機器についてちゃんと勉強しておいて良かった!

ただ、答えられない質問が2つほどあった。私は無機の人間だからと、捨てていた構造式が聞かれたのだ。その時は真っ青になった。

DMPOの構造式とか聞かれたからね。ただわからないと言うのもあれなので、代わりにその周辺知識のスピントラップ法について弾丸のように話した。(スピンアダクトで生じるDMPO-OOHがDMSOを加えると基本のマンガンピークしか検出されなくなるやつ)
聞かれてもいないことをベラベラ喋る変な奴だけど合格できた。

やっぱり小論文に書いた以上はちゃんと隅々の物質まで、その構造式もスラスラ書けるようにならないといけないね。先輩に聞くと、先輩の皆さんも面接で多少答えられない質問があったらしい。

わからない質問があったので受験終わった直後は私は確実に落ちたと本気で落ち込んだ。もし落ちたらあと僅かしかないけど公務員の勉強を死ぬ気でやればいいじゃないか、と自分を慰めていた。ただ、家に帰って睡眠をとって体を休めると、よくよく考えれば大体の質問には答えたし、プレゼンの感触も面接官の反応も良かったからもしかしたら受かっているのでは?いやそうに違いない。と急にポジティブ思考になって合格発表が待ち遠しくなった。学部時代の成績も提出する必要があったので、それも評価対象になるのなら飛びきりプラスになることはないかもしれないが少なくともマイナスな印象は持たれないはずだ。
面接の最後に他大との併願状況を聞かれて、もし合格していたら必ずうちの大学院に入学するか?と聞かれた。あれは今考えるとフラグだったのかもしれない。

結果、やっぱり受かってた。例年4倍以上の高い倍率だったが、今年は3回目募集までに合格した受験者での入学希望者が例年より少なかったお陰で5人もとってくれたので倍率は3倍だった。

私が合格したことは教授陣にすぐ広まり、特に奈良先と繋がりの深い教授からは「先端大受かったんだってね!!おめでとう!」と満面の笑みでお祝いの言葉をいただいた。私に例の企業に就職することを薦めていた別の教授からは「そこまでして院にいきたい?笑」と若干笑われた。

私の卒業と、奈良先合格は今の教授の元でなければ実現していない。卒論と奈良先の口頭試問に向けてあれほど細かく指導して下さったお陰で、自分が全く理解できていないことに気づき対策ができたのだ。教授の質問にほとんど答えられず本当にメンタルがやられたが、あれぐらいしなければ、ただでさえ狭き門の試験。確実に私は面接で落とされていたはずだ。何時間も研究について教えてくれたり、とにかく親切にしてくださった教授には頭が上がらない。前の研究室にいた時は退学することも考えていた地獄から救って下さった。まさに、一生の恩人である。奈良先に進学してからも、たまには顔をおみせしたいと思っている。

そして最後に。
私はメンタルがとにかく弱く、不安から不眠症にずっと悩まされてきた。(実際に1月中旬、鬱になっている)

けれど、中学入学後すぐ入院してヒョロヒョロだったが筋トレを重ねて陸上大会に入賞したこと、高校まで落ちこぼれだった頃からの猛勉強による脱却、2秋の途中体調を崩して、さらに3春におきた階段からの転落事故により2学期分の実験を落としてのギリギリ進級、アナフィラキシーショックで死にかけたこと、研究室に入って膵炎になり8キロ痩せたこと、実験再履、TOEIC、卒論、期末と乗り越えていくうちに、

「大丈夫。私ならなんとかなる。これまでも絶体絶命の状況でもなんとかしてきたのだから、あの時にした努力に比べれば」

と自分を信じて最後まで頑張ることができた。(最も、乗り越えられたのは周りの助けがあったからに他ならないが)

自分を信じていなければ、こんないばらの道を歩く選択はとらなかっただろう。

また晩年落ちこぼれだった中学高校生活や波乱の浪人時代については別の記事で時間あったら書きます。長い文章に付き合ってくれてありがとう。